空喰書話

第4回

旅の空

書家 沢村 澄子

おもしろや今年の春も旅の空

上記は1689(元禄2)年の正月早々、松尾芭蕉が京都の向井去来へ送ったとされる句。「今年の春も旅の空の下で歩くことだろう。何と面白く楽しいことか」といった現代語訳になるという。

わたしはこの句を度々書に書いていて、それはやはり、その時々にわたしの心情の端っこに触れてくるこの句、その接触に何かしらがあるということに違いなく、要はわたしも常に旅人であり、家があり、この4月からは町内会の班長なども務めるようであっても、決して根っこはそこに植わっていない種族に間違いないということ。

いや、日頃はむしろ極端な引きこもりで、誰にも会わずに字ばかり書いているのに、一旦旅が始まると、もう体温調節が間に合いません、というくらいの移動になる。これは芭蕉の時代には決して体験できなかった現代に生きるが故の珍現象。いいか悪いかはわからないけれど、どうしようもない、今どきの、時のぶっ飛ばし方である。

昨日高知から帰って来たのだが、その2日前に盛岡を出た日、朝の気温はマイナス4度だった。それが東京を経て高知空港に着いた時にはプラスの23度。コートは重く、身体は鈍く、暑いというより熱さを覚えた。何とも言えない到着の初日は、フライパンに入れられて蓋をされ、弱火で蒸されるソーセージのような気分。ソーセージって、いつもこんな感じに焼かれているのね…わたしはそう思いながら高知空港を出た。

スケジュールが全て決まっていて、周りのリードで進む旅は、旅とは言えず、仕事、出張と言った方が正しいのかもしれない。けれど、それをあえて旅と呼びたい今の心境は、その周りの人々が残してくれたものに違いなく、それが機械的に進んでいたようで、実はそうでもなかった、ところ、そこに沁み込んだ人々の大事に触れたからこそ、単なる出張ではない、この作文をするに至る大切な旅になったのではあるまいか。こう書いてしまえば、はや結論のようで、要は、わたしにとって旅は人だということになる。

高知空港に着いてから向かった先は〈ひろめ市場〉。いやはや、先ずはここの熱気に気圧されて口がきけなかった。とにかく人々が熱い。その熱さが場を形成している。ここに来て、本当に東北人は大人しいというか、口数が少ないというか、いや、日本人でもこうも違うのねと、ただただ驚くほかなかった。

この店のカツオが一番美味しいと教えられた列に並んでいたら、どんどん左右向かいから話しかけられる。「何食べます?」「タタキもいいですけどナマもいいっすよ」「どこから来ました?」「柚子サワー絶対飲んでってくださいね」等々、どうしてこんなに自由にしゃべるんですか…と誰かに聞いてみたいくらい、極々自然に話しかけられた。オープンだ。何が?ココロが。構えていない。

その時ふと思ったのだが、寒い地方の暮らしというのは、常にグッと身構えてあの寒さ、その寒さからくる辛さを耐え凌ごうとしているのかもしれないね。こんなオープンを岩手でやっていたら、体温までがすぐに抜け失われ、あっけなく低体温症になってしまうのかもしれない。高知ではとにかくダイレクトに人々が温かい熱を放っている。高知では太陽、陽の気がそこいら中に溢れている。(東北の人が温かくないとは言わない。それがダイレクトでないところに東北人の妙味がある)。

それから展覧会会場での展示作業に加わったのだが、初めて会う業者さんや館のお姉さん達にも人見知りはない。大笑いしながら、ズンズン作業は進んだ。何ですか、この陽気…と驚きが秒単位でこの身に沁みて来るにつけ、わたしの大阪出身の血に火が付いた。そうよね、40年近い盛岡暮らしですっかり大人しくなっていたこの血には、やはり陽気な陽気な大阪のお笑い精神が流れているのですよ。いつしかそれは自ら身を隠すかのように暗渠を流れ、昨今自他共の目に見えづらくなっていたはずなのに、わずか、わずか数時間で高知の熱気に掘り起こされ、夜、キレイに島田を結った芸妓さん達に囲まれた時には、大爆発!

世にも奇妙な宴だった。本当なら、緊張して食べ物も何も喉を通らないであろうはずの状況なのに、よく飲み、よく食べ、よくしゃべり。傍若無人とはまさにこのことという振る舞いで笑っていたわたし。自分自身、ナゼ?と思うようなところにスイッチが入ってしまったワケはやはりよくワカラナイ。けれど、明快に言い切れることは、そこでの崩れの中に、ニンゲンというものを垣間見、実に面白かった、ということになる。寄せ集まった全ての人が、実はそこに仕事人として居るのであって、もちろん個人の自由時間、お楽しみとして座っているわけではなかった。各々立場も違えば、関係性も異なり、それぞれに使命があった。その集合体が一瞬にでも心底笑うためには、どんな刺激が必要だったろう。間違いのない常識的な言葉のやり取りを壊して、その隙間から滲み出る、真のニンゲン、誠の互いを味わうためには、一体全体どのような。

それにしても向かいの席の社長さんが面白かったのである。〈梅は咲いたか〉を踊り終えたお姐さんがわたしの横に座ると、その社長さんは大真面目に言った。「長年の仕事柄でね、何でもしっかり観察してしまうんだが、あんな踊りをしていたら脚の筋肉鍛えられるよね。ずっと中腰のまんまだもんね」。噴き出しそうになるのを必死に堪えたわたし。お姐さんは一瞬カチンときたその気持ちに平静を被せてニッコリ「はい、太ももが張って張って…」。

それを聞いたわたしはついに大爆笑。いい加減にしてくれませんか、社長さん。せっかくキレイなお姐さんが見事な踊りを披露してくれ、その艶っぽいこと流し目など申し分なかったのに、まったくのその感想…。素直、実直、正直に、どうしてキレイだねとか、色っぽいねとか、カワイイねとか、言えないんですか。正に言うべき、この今のタイミングで、ナゼ言えない?いや、本当に、どうしてそう言えないんですか、社長さん!

そして、その社長さんの横の会長さんがまた強者だった。靴を履く段になって大女将に言うのである。「似てきたなぁ~」。そこには歴代の女将さんの写真が並べられてあった。今の大女将のお母さんのそれを指さし「アンタかと思ったよ~」。そう言われた大女将は気の毒である。さすがのプロも返答できず言葉が出ず。いや、いくら親子で似ているとはいえ、その先代の写真と大女将の今の年齢差は10も20もあっただろう。女性はいくらでも若く言われたいであろうに、それはない。思わずわたしは会長さんをつねってやりたかったが、さすがにつねりは許されぬ初対面の人で、それにしても女ゴコロを一体どう思っているのか、この人達は、とアキレてアキレて、アキレ切った高知の夜。

滞在中、車で〈はりまや橋〉近くを通り過ぎた。坊さん簪買うを見た、のあのはりまや橋である。三味線を習っていた頃、難しい練習にくたびれるとわたしはよくこの歌を歌った。好んで歌ったのは、このよさこい節と串本節ばかり。共に、南の風気に流されゆくようでなくならない、ニンゲンの情けが、機微が、微かに滲むようで好きだった。

いいじゃないですか。坊さんが簪を買う。もう一度言いますが、いいことですよ。坊さんが簪を買う。いや、坊さんでなくても簪を買えばいいんじゃありませんか、どなた様も、皆々様。

あれ、旅の話を書くはずが、高知の一夜を作文したらはや予定の文字数になってしまった。実はこの3月、新潟へ行き、高知へ行き、再び新潟へ行って戻って和歌山へ、という旅の月日に、この春はまさにその空に暮らすわたしだというのに。

しかし、それを面白いと思うのは、間違いなく人のココロが動いている時に違いない。名所、銘酒、銘菓、名物によって賑わう旅でもあろうが、全てにおいてそこに介在する人というものの面白さが、やはり旅を、ひいては人生までを色濃く、情け深いものにしてくれる。刹那な人生も旅も、そこでほのかに切実になる。

ギャラリーみつけ 沢村澄子展「宙(そら)と書と」 2024年3月15日ー3月31日
作品左「廻」240×432cm 2023 屛風「いろは歌」196×191cm 2019、作品右「残水」180×720cm 2023
※ギャラリーみつけ(見附市民ギャラリー) https://www.gallery-mitsuke.com/
 新潟県書道協会YouTube「宙と書と」

ギャラリーみつけ 沢村澄子展「宙(そら)と書と」  2024年3月15日ー3月31日
ギャラリー2Fの窓ガラスに貼られたのは、地元見附市民に愛される夭折の詩人・矢沢宰の詩「ベンチ」

新潟絵屋 沢村澄子展 「この世の星」 2024年3月16日ー3月31日 展示風景
※新潟絵屋 http://niigata-eya.jp
 新潟県書道協会YouTube「この世の星」


さわむら すみこ (文と書)
Sumiko Sawamura

1962年大阪生まれ。書家。新潟大学教育学部特設書道科在籍中から個展による作品発表を始め、これまでに120回を超える。書を「書くこと(Writing)」と定義。「描かない(Not drawing)」という姿勢で自作と絵画を分別。
岩手県美術選奨(2001年度)、第29回宮沢賢治賞奨励賞(2019年)、第73回芸術選奨美術部門文部科学大臣賞(2023年)、第14回手島右卿賞(2024年)など受賞。
2023年春に開業した東急歌舞伎町タワー内BELLUSTAR TOKYO, A Pan Pacific Hotelに作品40点が常設された。
3月16日-5月6日佐久市立近代美術館「コレクション展」にて作品展示中。3月15日 全編書下ろしによる初のエッセイ集『書くということ』(一畫社)が刊行された。
https://sawamura-sumiko.work

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