いわてのこんなところ
せい ざ せき
● 星 座 石 ●
 

釜石医師会 工藤 純孝

 釜石の市街から国道45号線を三陸海岸沿いに南へさがると、 次は花露辺 (ケロベ) という部落である。 かつて下閉伊一揆の時代には南部藩の最南端の釜石村に終結、 海と山との二手に分かれて伊達藩に逃げ込もうとしたが、 伊達藩では急遽、 代官を派遣、 一揆の代表者と交渉した場所でもある。 この地に星座石と呼ばれる石碑 (写真) がある。
 伊能忠敬が日本全国を測量し詳細な地図を完成したことは周知の事実ではあるが、 三陸沿岸の測量に入ったのは1801年 (享和元年) のことである。 地動説は16世紀ごろ宣教師によって紹介されているが西洋文化は鎖国にも拘わらず、 中国を経由して漢文で、 あるいは長崎をへてオランダ語で紹介された時代である。 日本では天文学は単に編暦的意義として利用されているだけであったのでガリレイと違って簡単に受け入れられたようであった。 この時期には既に地球は楕円形で北極星が微動する。 すなわち、 地球微動の考えが導入されている。 伊達藩の最北端、 気仙郡の片田舎に住んでいた無名の篤志家、 葛西昌丕は独学で天文学を研究していたが、 この地を訪れた伊能忠敬に傾倒し、 1814年に記念の石碑を建立したといわれる。 葛西昌丕については資料が乏しく、 くわしいことは不明であるが、 測量と石碑建立の時期がちかいことから直接、 忠敬の訓導を受けたものであろう。
 この石碑の意義は将来、 後世に地球微動の事実の検証を託したことであろう。 忠敬の三陸測量から200年になろうとしている今、 この石碑は、 我々に 「科学のありかた」 を教えるとともに、 現代の刹那主義への警告をあたえているのではないだろうか。


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