あとがき

この稿を書き始めた時に、診療所のファックスに悲しい知らせが届いていた。本組合の創立者のおひとりで、初代理事長である八木義郎先生が、9月30日にお亡くなりになったという知らせであった。病気療養中であることは知っていたが、いつも年齢を感じさせない元気な方なので、再び、笑顔で本組合の会議の席に戻ってこられるものと思っていた。

通夜の席で喪主をつとめられたご子息・淳一郎先生は「私は、父親の70、80、90代と齢を重ねる姿を傍らで見ていましたが、いつも感心することは、常に何か新しい事に取り組もうという姿勢でありました。…あと1ヶ月で97歳の誕生日でした」とご挨拶された。先生の常に新しいことへ取り組もうという考え方が、岩手県医師会の関連組織である岩手県医師国民健康保険組合から本組合を誕生させ、岩手県医師会、盛岡市医師会においても関連の多くの組織を立ち上げ、現在の岩手県医師会、盛岡市医師会の盤石な運営基盤へと大きな貢献をされた。

90歳を過ぎて本組合の相談役として、会議に欠かさず出席し、その後の懇親会で乾杯のご挨拶をされる機会が多かったが、ご挨拶の中には、必ず、当日の会議の内容を取り入れ当意即妙のお話をされるので、その柔軟な対応に感服していた。

先生が94歳の頃のこと、県医師会の会議にもご自分で車を運転して来られていた。「川徳」方面に先生の運転する車が行くのを見送っていて、後日、失礼を省みず「先生、運転をなさっているのですね(多分に、お年なんだからの意を込めて)」と尋ねたら「菅原君、僕は県営野球場の近くに家庭菜園を持っていて、今、一番の楽しみは野菜を育てることで、あそこまで行くには車が必要なんだ」と答えられ、その意気込みに妙に納得してしまった。

一昨年、小野寺弘之先生、今年は八木先生と本組合の創立に大きな力を尽くした方が亡くなった。今、医療界は医療内容も制度自体も大きな変革の時に立っている。医療に携わる全ての人間が先の見えない大きな力で振り回されているように思える。せめて、残された私達組合員は、先輩の築いた「いわて医師協同組合」を守っていかなければならないと思った。

菅原 克郎

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