郷土の偉人の教え

郷土の偉人の教え(3)

高田松原を育てた二人の先人
 菅野杢之助と松坂新右衛門

白砂青松の景勝地として知られた高田松原にはおよそ7万本にわたる松が植栽されていました。今回は海浜の耕地を守るため、長い歳月を費やして植林に力を尽くした二人の先人を紹介します。

2011年3月11日に発生した東日本大震災の大津波により、高田松原は壊滅的な被害を受けました。約2qにわたる弓なりの砂浜と、およそ7万本の緑なす松林は、日本百景、国指定文化財、新日本百景、日本の名松百選、白砂青松百選、日本の渚百選などなど、美観を称える数々の指定や選定を受けた名勝です。

高田松原は、時をさかのぼれば旧高田村と旧今泉村にまたがっていますが、もともとこの地域は1本の木さえ生えていない砂原でした。潮風が巻き上げる砂塵が吹きすさび、高潮にさらされた荒廃・不毛の地で、背後にある農地は収穫皆無という年もしばしばという有様でした。

このような悪条件を克服しようと立ち上がったのが、菅野杢之助(1617─1671)と松坂新右衛門(1672─1754)です。高田村の杢之助は父とともに「平賀屋」の商売を発展させ、開墾にも積極的に取り組んで豪農になり、財力を高めていました。寛文6年(1666)、仙台藩の奉行は杢之助と村人に防風・防潮のための松を植林するよう命じます。

翌年、杢之助は一部を自ら負担して6200本の苗を準備し、雇い入れた約200人の賃金も半分は杢之助が負いました。しかし、砂地に根付いたのは3000本ほどで、半分以上は枯れ死してしまうなど苦労は絶えませんでした。

杢之助はあきらめることなく代官所に続行を願い出、2年目からは私財を投じて人夫を雇い、クロマツを中心に慎重に植林を続けました。植え付けを始めてから7年間で雇った人足は延べ672人、植林した松苗は約1万8000本にのぼっています。杢之助は植林を始めてから4年目の寛文11年(1671)、事業半ばで松の成長を見届けることもなく亡くなりましたが、彼の遺志を継いだ子孫の手により数十年かけて松林が整備されました。

一方、高田松原の西側にある気仙川沿いでは、今泉村の松坂新右衛門によって新田開拓が進められました。新右衛門は本吉郡山田村(現宮城県気仙沼市)の生まれで、長じて今泉村の松坂家に入婿し、金山開発や製鉄業の発展に尽くした人物です。当時、東北地方を襲った不作・凶作によって農民の生活が困窮していることに心を痛め、気仙川河口の沼地を農地にしようと開拓事業に取りかかりました。

しかしながら、この一帯も海岸に近いために風害、潮害の多い不毛の地。そこで新右衛門は高田村で効果を上げている植林事業に取り組むことを決意します。新右衛門も私財を投じて人夫を雇い入れ、享保年間(1716〜36)に自ら身を呈して植林、補植を続け、長い年月をかけて松を増やしていきました。

その当時、植栽された松はざっと2万本を超すものと推定されています。両翁の苦労があってこそアカマツ、クロマツの一大美林が形成され、防風や防砂林の役目を果たすとともに、緑豊かな松林と白い砂の美しい名勝「高田松原」の基礎が築かれたのです。

陸中海岸国立公園を代表する景勝地も、これまで幾度となく津波の被害を受けては壊滅の危機に陥り、そのたびに先人の志を継いで松が植えられてきました。昨年の東日本大震災の巨大津波で300年以上の樹齢を刻んできた松林は失われてしまいましたが、その中で唯一残った1本の松は新右衛門が植えた木とも推測され、「奇跡の松」「希望の松」として人々の復興のシンボルになっています。

それは、1本の松に希望を託し、決してあきらめることなく植林を続けた両翁の気高く、屈強の魂の象徴のようにも思われます。

(編集部)

※参考文献 「陸前高田市史」(陸前高田市)、「高田松原ものがたり」(高田活版)、「東海新報」(2011・5・18)

一本松

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