第16回
言葉を超えたところにある
「物語」にふれるということ。
住宅・生活誌「家と人。」編集長 加藤 大志朗
私たちは誰も
聴いていない
ビジネスや教育の現場で「debate=ディベート」が注目されています。一つのテーマについて異なる立場に分かれた人が議論することをいうようです。
一般にディベートには勝敗がありますが、「対話」は勝ち負けを目的としません。
自前のロジックで相手を打ち負かしたとしても、尊敬されるどころか嫌われてしまうのが日本の社会。「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」(論語)の精神は、いまなお人間関係の基本とされているのです。
「対話」の基本は、互いに誠実に話をすること。双方の根っこには「自分の話を聴いてほしい」という願いが潜んでいます。
しかし、ビジネス、家庭の場面で、わずか3分でも、相手から何のコメントもなく話を聴かれた経験を持つ人はそんなに多くはないはずです。自分の意見を述べずに、徹底して相手の話を3分聴き続けた、そんな経験を持つ人も多くはないでしょう。
こちらから相談をもちかけたくせに、相手に話の腰を折られ、アドバイスまでされると「こいつに話すんじゃなかった」と後悔することもあります。
私たちはただ、聴いてほしいだけ。相手が何を話そうと、自分が話す次の機会をうかがっているだけかもしれません。
生きることは
物語を編むこと
どんな仕事もそうであるように、私たちの仕事も「聴く」ことなしでは成立しません。
取材の現場では、相手がどんなに自分と違った意見でも、徹底して聴いて、受け止めます。こうした過程を軽視すると、あとで困るのは自分自身だからです。
情報は、拾いながら捨てるのが鉄則。捨てて捨てて、捨てまくると、やがて情報の芯のようなものが見えてきます。
整合性のあることなど滅多にないのです。現実と記憶、身体と心、意識と無意識、家族と個人、個人と社会、生と死――など、相反するものを結び付けることは、そもそも無理な話。それぞれの情報の断片の深いところにある混沌をつなぐ作業が求められ、その作業こそ「物語」を編むことにほかなりません。
親しい知人が乳がんとなりました。余命3カ月です。「乳がん」「3カ月」の診断は事実ですが、私たちがその事実をどう受け止め、どう生きるか、どう「聴く」かで物語の内容は違ってきます。
父親との確執が続いていた彼女は、余命を知って初めて、父に愛された幼い日を思い出します。母親は、化学療法で髪の毛が抜け落ちることを心配し、二人で百貨店に帽子を買いに行くことを提案しました。
事実に隠れている断片をつなぎ合わせると、数えきれないほどの物語が構築されます。
ノンフィクションとフィクション、あるいは写真や絵画、音楽、いえ、生きることの全ての場面で、私たちは無意識に情報を拾い、物語を編みながら生きているのです。
認知症の母の言葉は
神さまの言葉
認知症が進んだ母を、北海道の実家から岩手に転居させ、4年が経ちました。転居をしたこと、9カ月の同居を経て施設に入居したことで、さらに症状が進行することを心配しましたが、家族の顔は認識できる状態で現在に至っています。
私たちの見えないところで、医療従事者や施設の方々の手厚い支援があったからこそと感謝しています。
アイヌの人たちは、老人が意味不明なことを言い始めると「この人は神さまの言葉を使い始めた」と考えました。記憶障害ではなく「神さまとつながるようになった」と捉えたのです。
そんなふうに思って接すると、不安やイライラも軽くなり、以前とは違った母とのつながりが実感できたのは不思議な体験でした。私たち母子は認知症ではなく「物語」を通じて、再会したのです。
「故郷は人が孤独ではないことを告げる。村人たちのなかに、植物のなかに、大地のなかに、おまえの何かが存在し、おまえがいないときにもそれが待ちつづけていることを知らせる」(『月と篝火』チェーザレ・パヴェーゼ 川島英昭訳)。
通りの家、野の花や樹木、川や遠くの山々でさえ、話しかけてくれる、そんな気がするのは、私たちの根源に「聴く」力と「物語」を編む力が備わっているからです。
人、自然、動物、モノ。何でもかまいません。他者の言葉に静かに耳を澄ますと、自分とのつながりが生まれます。そのつながりから新たな物語が生まれます。
そうして生まれたいくつもの物語こそ、生も死も時空も超え、あちらの世界に持っていける宝物と信じています。
小さなカメラを持って盛岡を歩く。耳を澄まして「聴く」ことで、路地裏の古い建物、民家の蔵や軒先までも物語を静かに語ってくれる。
かとう だいしろう (文・写真)
Daishiro Kato
1956年北海道生まれ。編集者。住宅・生活誌「家と人。」編集長。これまでに25カ国を訪れ、国際福祉・住宅問題などの分野でルポや写真、エッセイを発表。住宅分野では30年にわたり、温熱環境の整備と居住福祉の実現を唱えてきた。主な著書に『現代の国際福祉 アジアへの接近』(中央法規出版)、『家は夏も冬も旨とすべし』(日本評論社)など。出版・編集を手掛けるリヴァープレス社代表(盛岡市)。