被災地現場レポート(1)
被災地訪問
いわて医師協同組合 副理事長 岩 動 孝
3月11日、午後2時46分に起きた突然の大地震により、太平洋沿岸では未曾有の大津波に襲われました。
それは、私は岩手県庁12階で行われた岩手県社会福祉審議会の分科会を終えて診療所に帰り、診察を始めた直後のことでした。揺れは約2分間続きましたが、透析患者さんや、見守り中の看護師さんはとても怖かったと思います。しかし、彼女たちはひと時も職場を離れることなく、透析患者さんに不安の無いように対応していました。私は彼女らの行動に感動を覚えました。地震発生直後に起こった停電により、透析を続行することが出来ず手動にて透析器からの離脱となりました。
その夜、真っ暗な盛岡市医師会館と岩手県医師会館を訪れましたが、真っ暗の中懐中電灯をともし、携帯ラジオに聞き入る事務局員の姿を見て、またまた心を打たれました。岩手県医師会館では、予防医学協会の田郷敏昭専務理事が居られましたが、「陸前高田に検診車2台が行っているが、その安否が分からない」ということでした。何ということが起きてしまったのか、と落胆の気持ちでいっぱいでした。
次の日、全国各地から続々とDMATが被災地に赴き、岩手県医師会としても懸命に対応をしました。さらに、停電が続き、ガソリンが手に入らず、LPG(液化プロパンガス)を燃料とするタクシーに頼る生活となりました。
電力が回復し、沿岸の情報も少しずつ入るようになり、予防医学協会の方々は、検診車を捨てて徒歩で高所に避難し無事であることが確認され、ホッといたしました。しかし、郡市医師会長先生の消息が分からないこともあり、被災地の状況を視察し、現状を確認しよう、ということになり、石川育成県医師会長にお供して釜石、宮古、大船渡に行ってまいりました。
釜 石
3月19日(土)の午後、釜石に入りました。新仙人トンネルは無事であり、破損を受けたという新道の橋も通ることが出来ました。路面は一部大きく波打っているところや補修による段差もありましたが、大体スムーズに通ることが出来ました。道路では、多くの自衛隊の車両と行き交い、さながら映画で見る戦地の様相を呈しておりました。大橋地区から先ず県立釜石病院を訪れ、遠藤秀彦院長を慰問しました。釜石病院では病棟の一部が耐震構造になっていないため、入院患者を市外の他の病院に搬送した、との事でした。透析医療は自家発電により休日返上で行っているが、資材がいつまでもつかが問題だといっておられました。
その後、小佐野を通り中妻町あたりまでは、普段どおりの釜石でした。中妻町の釜石医師会に行きましたが、会館には備品も書類も片付けられており、これは津波に襲われたのでは?と思いましたが、現在補修中ということで、安心しました。
小泉嘉明会長は「遺体検案のため小佐野小学校に行っている」とのことで、早速小佐野小学校に向かいました。小学校の前で小泉会長にお会いし、無事を喜びあいました。遺体検案については、当初から検案医の不足が危惧されていましたが、余りにも多くの遺体が運び込まれるため、むしろ検察官の方が足りずに、検察医は長時間待つ状態だった、ということでした。
その後、甲子川にかかる五の橋を渡り、釜石駅方面に行くあたりから、目の前の光景は一変し、瓦礫の山が散乱し、建物は流され、大きなビルも2階あたりまで破壊された状況でした。道路の幅だけ瓦礫が撤去され通行は可能でしたが、道路わきには大きな船が転がり、家の中は泥と材木の切れ端などで埋め尽くされていました。路上で堀 晃先生と奥様、加賀屋常英先生にお会いし、無事を喜びあいました。
釜石では渥美 進先生、渥美久子先生の行方がまだ分かっていない、ということでした。
宮 古
3月20日(日)は宮古に行きました。宮古街道を進み、千徳の三陸病院のあたりから宮古駅にかけては無傷のように見えましたが、大通りから海岸に至る市街地では浸水の跡が生々しく残っておりました。
宮古医師会を訪れ、柳原博樹保健所長、佐藤雅夫副会長などにお会いして現状をうかがいました。電話・ファックスなどが利用できず、盛岡からの情報が全く入らない状況で、不安な毎日を送っているが、無傷の診療所は診療を開始し、浸水を受けた診療所の医師などは県立宮古病院の手伝いをしていると聞き、頭の下がる思いでした。
その後、大通りの後藤医院に行きましたが、後藤康文先生は、日曜日にもかかわらず透析医療に従事しておられました。電源は自家発電、給水は止まっているが、日頃から親しくしている人たちの助けによりポンプ車などで水の提供を受け、何とか津波の次の日から透析を開始している、とのことでした。震災後1週間目でしたが、待合室は整然と片付けられ、床もきれいに掃除されていました。壁にはくっきりと水面の跡が残っており、津波の大きさがうかがわれました。
県立宮古病院は待合ホールに対策本部が設けられ、菅野院長が陣頭指揮を執っておられました。しみじみと全国各地からのDMATには助けられた、と感謝していました。宮古病院に居る時に大きな余震があり、みんな驚いてテレビに注目し津波の心配が無いと聞いて安心したようでした。
最後に、津軽石駅前の木澤健一会長の診療所を訪問しましたが、木沢医院は約1.8mの浸水があり、1階は使用不能、2階で診療開始しているようでした。隣接する自宅前で木澤会長がスコップを持って瓦礫の整理をしており、中から奥様とご子息が出てきました。大きな被害を受けながら、笑い顔で再興の意欲を示しておられたので、感動の気持ちを強く持ちながら宮古を後にしました。
熊谷維克先生の行方がまだ分かっておりません。
大船渡
3月26日(土)大船渡に行きました。大船渡は先ず気仙医師会館を訪れましたが、会館は約40pの浸水を受けたということで、しかも給水、電力の供給がストップしているので、床は泥だらけでしたが、机の上やファックス・電話、書棚の書類などは何とか無事でしたが、石油ストーブだけでは寒いくらいの気温でした。気仙医師会は会長の武田 健先生と副会長の村上静一先生などの行方が分からず、重苦しい雰囲気でした。山浦玄嗣前会長など数人の役員の方々が来館されましたが、辛うじて難を逃れた新築の山浦医院に行って実情を話し合うことになりました。大津定子副会長も駆けつけ、薬品不足や、壊滅状態の陸前高田の医療体制などについて話し合いました。(その後、武田会長、村上副会長がご遺体で発見されたとの報告がありました。帰り道に、住田診療所を訪れ、高田病院から拠点をうつして住田で寝泊りしている石木幹人高田病院長にお目にかかり、被災者に対する薬品供給などについてお話しました。
陸前高田は壊滅状態で、医療機能は勿論殆どの市民が避難所生活を余儀なくされており、最も救援を必要とするところだと感じてきました。
気仙医師会ではまだ石塚晴夫先生の行方が分かっておりません。
以上、大まかな状況を述べましたが、実情はもっともっと悲惨であり、今後医師会員、医協組合員を始めとして、全県民が一つになってこの難局に立ち向かう必要性を強く感じました。
改めて、今回の大震災でお亡くなりになった会員の先生方、ご家族様はじめ、被害を受けられたすべての方々に心からのお悔やみとお見舞いを申し上げます。
破壊されつくした診察室(堀医院/釜石市)
砂煙の中の庄子医院(釜石市)
木澤会長宅(宮古市)
水面の跡がくっきり(木沢医院/宮古市)
気仙医師会館付近(大船渡市)
気仙医師会館内(大船渡市)