災害医療現場レポート(1)
東日本大震災を振り返って
久慈医師会 会長 鳥 谷 宗 正
近年久慈で、平成20年6月14日岩手・宮城内陸地震と同年7月24日岩手北部地震の二度の地震を経験しましたが、建物などの被害が少なく不幸中の幸いでした。しかし数年以内に宮城県沖地震と津波による災害が心配されており、久慈医師会でも平成22年4月に中越地震を参考に災害対策ガイドラインを作成しました。まさかこんなに早く災害に会うとは夢にも思っておりませんでした。
今回3月11日の地震発生後、大津波警報にともない、近くのお寺に避難したものの、しばらくは周りの状況が全くつかめませんでした。広域連合より県立久慈病院救急外来からの応援依頼があるとの伝言を受けましたが、携帯電話が通じないため会員の先生方と連絡がとれず、とりあえず病院に向かいました。今考えると川が決壊していれば久慈病院も浸水し、巻き込まれた可能性もあり恐ろしい気がいたします。久慈市は沿岸部を除いて奇跡的に市内の被害が少なく、死者、行方不明あわせて4名でした。隣の野田村は死者が38名ほどで、村の中心街を含めた3分の1が壊滅的な被害を受けております。しかし宮古から気仙地域までの被害があまりにも大きく、この地域の被害が少ないように思われるのは仕方のない事かもしれません。
震災の翌日、最初に会員の安否確認を行いました。久慈医療圏では野田村にひとつしかない診療所が全壊、それ以外の医療機関はほぼ正常に機能しており、会員は全員無事でした。午後から久慈市内の避難所巡回を開始、2日目の昼、久慈市役所で野田村役場の職員と偶然出会いました。村の避難所で、糖尿病のインスリンや血圧の薬の無い患者が多く、是非来て欲しいと頼まれ、まだ大津波警報の出ている中、県立久慈病院医師、看護師と3名で防災センターの車をお願いして野田村に向かいました。やっと車の通れるほどの道で、瓦礫が道の両側に山のように積み上げられておりました。行く途中、川のそばで遺体が発見されたため人垣が見られたり、避難所でも家族の泣き声が聞かれたりしました。巡回中も田老沖で津波が発生し、警報で高台に避難させられることもありました。現地では保健師さんが同乗して各避難所を案内してくれました。村に保健師は二人しかおらず、不眠不休で働いておりましたが、それでも必死に、もう1ヵ所まわってもいいですかと訊いてくる熱意につられ、夜まで一緒に巡回いたしました。本当に頭の下がる思いでした。その後、この地域の診療体制を元に戻すためには村に仮設診療所を開設することが急務と思い、保健所の指導のもとに医師会で取り組み、3月28日に開業に至りました。その原動力は、保健師さんと役場職員のみなさんの熱意から戴いたものでした。
今回久慈医師会は市内の被害が少なかったため、早い時期に現場に出かけて野田村の実情を把握することができました。災害時の対応はスピードが大切で、平時とは違い、必要とされた時に直ちに実行、行動することが重要であると思われました。
九戸郡野田村