災害医療現場レポート(2)
震災初期の死体検案に参加して
奥州市医師会 千 田 直
3月17日(木)、奥州市医師会の震災派遣医師団の一人として、陸前高田市に行って死体検案を行なってきました…というのはいわて医報に掲載したとおりです。こちらには多少違うことを書いてみます。
3月11日(金)の震災の時、うちの院内には僕や看護師などのスタッフ、数名の患者さんがいましたが、真っ先に建物の外に避難したのは僕でした。スタッフは、足腰が不自由ですぐには動けない患者さんを何とか外に出そうと、揺れる建物の中で必死で手を貸していました。それを見て、僕は「そうか。仮にも院長たるもの、格好だけでも患者さんを逃がすのを優先すべきだよなあ」と反省(?)し、こわごわ建物の中に戻ったのでした。余震も続き停電も解消されないため、11日はそのまま休診にしました。
翌朝スタッフは出勤してきましたが、停電が続いていたため12日も休診としました。
その日僕はストーブ用の灯油を買いに行ったり、視察と称して街中をうろうろしたりして、のんびりとした一日を過ごしました。
ところがその頃医師会では、臨時の理事会が開催されていたのです。みんな携帯で連絡が取れ集まっていたのですが、日頃携帯を持ち歩く習慣のない僕は、全く気がつかずにいたのでした。
日曜日、さすがに医師会員としてなにか仕事があるはずだと気づいた僕は(遅!)医師会館に行きました。会館には既に会長などが待機していました。その後何人か理事の先生方が集まり、うち二人が警察の車両で沿岸に向かいました。聞くと、県医師会並びに県警からの依頼で、死体検案のため昨日から出動しているとのことでした。前日の理事会ではそれらの話合いが行なわれていたのです。
月曜以降も津波の被災地での検案業務は必要と思われました。会長は県医師会や近隣の郡市医師会長などと連絡を取り、支援体制が取れる医師会で派遣を継続していくことになりました。奥州市医師会では当面の間毎日、A会員から一人、県立胆沢病院から一人の二人体制で協力していくことにし、具体的な人選を行ないました。
僕は木曜日の午後が休診ということで、その週の木曜の担当になりました。
検案を行う時の作業服は、以前にSARSが流行した際、医師会に防護服として備蓄したものが配布されました。かなり物々しい感じですが、体をすっぽり覆えるので安心感があります。
また、今年は3月になっても結構寒い日が続き、当日も雪がちらつく天気でした。僕は駐車場の雪かき用の深い長靴を履きました。その日のいでたちを再現してみました (写真)。
寒さ対策に、靴用の使い捨てカイロも準備したのですが、どこにしまったか忘れてしまい、結局使わずじまいで足元が冷たいまま作業しました。
現地に入った状況は、既述の通りですし、多くの方々が書き記しておられます。その通りだと思います。
一つ僕が思ったのは、「瓦礫の山」という表現についてです。慣用句だとは理解していますが「山」というのは違和感があります。
最初高台から見たせいかもしれません。実際近くに行って見れば「山」があったのかもしれませんが、僕が市内を一望してイメージしたのは草原でした。建物はおろか高い木々もなく、はるか遠くまで瓦礫が一面に広がる、山というより「瓦礫が原」とでもいうべき光景でした。
死体検案は矢作小学校体育館で行なわれました。内部の状況を説明します(下図参照)。記憶も大分薄れてきたので不正確なところがあるのはご容赦下さい。
体育館の床にはブルーシートがしかれ、カーテンなどでいくつかに区画に区切られています。見たかぎりでは暖房はありません。
その一画で死体検案は行なわれています。図でいうとステージの上の辺りです。 運ばれてきた遺体は、体育館の「ご遺体搬入口」から遺体仮安置場所に並べられます。僕たちが到着した時点で既に30前後の遺体がありましたが、その日はさらに40近くの遺体が搬送されてきました。
遺体はたいがい泥まみれになっているので、地元の警察官が服を脱がせて泥などをふき取ります。おそらくその過程で身元確認につながる所持品などもチェックするものと思います。ある程度きれいになった遺体は検案の方に回されます。検案の実際についてもいわて医報をご覧下さい。
検案が終わった遺体は専用の収容袋に入れられて体育館の入り口近くに並べられます。時折、遺体確認に家族などが訪れてきますが、僕たちがいる間に確認されたケースは残念ながらなかったようです。
昼食は、ステージが臨時の休憩室になっていて、そこで警察官たちと一緒にとりました。テーブルの上には、隊員らが自分たちで握ったと思われるおにぎりや果物などが並べられていました。僕たちも勧められましたが、現地の食料事情や隊員たちの苦労を考えると申し訳なく、持参した自分たちのお弁当のみを食べました。その後車の中で少し横になりましたが、暖を取るためエンジンをかけっぱなしにして、これまた当時のガソリン事情を考えると申し訳ない思いでした。
午後も何体か検案しました。途中、大学病院の歯科の先生が歯科検案に来ていました。2人でてきぱきと口腔内を見ていましたが、僕たちが安置所を後にした5時過ぎにはまだやっていたようです。
この体育館の中から校庭と反対側の窓(前頁の図でいうと右の方)に目を向けると、建物のすぐ裏手まで山が迫っていました。当時、地震で大規模な地すべりでもおきたらここも飲み込まれるのかなあ、などと胆沢病院の先生と話しました。
しかし今思うと、この小学校に通っている子供たちにはそれは日常的に起こりうることです。またあの時は学校は休みでしたが、再開された時、かつて多くの遺体が収容されていた体育館で子供たちは平常心でいられるのでしょうか。地震で直接の被害はなかったにせよ、なんらかのトラウマが残ったのではないかと心配です。
彼らを含めて、沿岸の子供たちが落ち着いて学習できる環境を早急に整え、「教育機会の喪失」という将来にわたって影響を及ぼす2次被害を発生させない努力が必要だと、痛感します。
【矢作小学校見取り図】
死体検案時の作業服を再現