三陸大津波と山奈宗真
遠野市医師会
千 葉 純 子
平成23年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震「東日本大震災」が発生しました。(関東大震災のM7.9を上回り国内観測史上最大級)
その約30分後には三陸沿岸地方を大津波が襲い、未曽有の惨劇が繰り広げられ、岩手県内の犠牲者は5千920人(死者4千671人、行方不明者1千249人)に上りました。
歴史を遡ってみると、今回のような大きな地震津波は、近代以降では1896年(明治29年)と1933年(昭和8年)に発生しています。
とくに、「明治三陸大津波」として歴史に残る大災害は、明治29年6月15日の夜間に起こりました。釜石沖約200qを震源とするM7.6などの大小11回の地震に続き、綾里で高さ22m、吉浜24m、田野畑22.9m、野田18.3mという巨大津波が襲来。村々を壊しつくし、約2万2千人の人命を奪い去りました。
当時、岩手県における殖産興業指導の先駆者であった遠野の起業家・山奈宗真(やまなそうしん)は、大きな被害を受けた沿岸の水産業の行く末を心配し、産業や経済の復興への糸口を見出すため、いち早く岩手県に津波被害調査員として任命するよう願い出て 「海嘯被害地授産方法取調」の委嘱を受けました。
現地踏査は、津波被害から約1カ月半後の7月31日に陸前高田市から開始して、9月8日に九戸郡洋野町で終了。総延長約700qにおよぶ長く複雑な海岸線を、49歳の山奈は、約40日間、暑さと長雨と余震に悩ませられながら、ほとんど単身でワラジ履きの徒歩で貫徹したのでした。
山奈の調査は、単に被害状況を調べるだけのものではなく、調査項目の中に「漁村ノ新位置」、「漁村挽回」、「漁民将来ノ企望」など、将来を見据えたものも設けていました。また、津波浸水域を書き込んだ見取絵図も津波直後を精緻に記録した第一級資料として評価されており、山奈の測量技術の高さを裏付けています。
彼の調査記録は「岩手県沿岸大海嘯取調書」や「大海嘯見取絵図」などにまとめられましたが、当時はあまり活用されないまま、1903年(明治36年)に帝室図書館(現 国立国会図書館)に寄贈されました。
しかし、1980年代になって、死亡者数や測量絵図などの正確さから山奈の記録が再評価されます。記録の中には、住居は海岸近くの作業小屋と離して高台に作り、生活と仕事場を分けること、防潮林の有効性を評価し、堤防と併用すること、お互いに助け合う相互扶助の習慣を失わないことなどの、津波の予防対策・応急(復旧)対策・長期(復興)対策と考えられるものが記されていることも注目されました。
「被災地に対して何ができるのか」、「大津波に備えるべきことは何か」を一心に考え、実行し、伝えようとした山奈宗真。
東日本大震災を体験した私たちは、山奈が116年前の明治三陸大津波の際に行った活動に学び、悲劇が繰り返されないように、今こそ未来に向けて何をなすべきか真剣に考え、行動していきたいと思います。
山奈宗真
岩手県海岸巡回古文書拾集録