郷土の偉人の教え

郷土の偉人の教え(2)

医療奉仕活動に尽くした 及川 栄

岩手県の沿岸地方はこれまでも明治29年(1896)と昭和8年(1933)に大津波に襲われています。先人たちはいかにして困難を乗り越えてきたのか―。前号の山奈宗真に続き、今回は同じく明治の三陸大津波で「医は仁術なり」を全うし、被災地での救命に尽力した及川栄医師を紹介します。

「明治三陸大津波」が起きたのは明治29年6月15日。午後7時過ぎに地震が発生し、8時過ぎに襲来した大津波は海辺の村々を破壊し、団らんの家庭を呑み込みました。この津波による犠牲者は約2万2000人と記録されています。

当時、江刺郡選出の県会議員であり、日本赤十字社正社員の医師だった及川栄がこの惨状を知ったのは6月17日の朝です。新聞を読んで驚いた及川医師は、人命を救うことが天職である医師の仕事と、直ちに被災地に赴くことを決意します。以後、40日以上にわたった災害医療活動の模様を及川医師は『海嘯地出張日誌』に詳しく記載しています。

その記録によると、まず、自分の病院にある薬、包帯、器械を準備するとともに、県と郡役所に医師の派遣と早急の救護態勢を取るよう要請し、さらに近隣の医師にも救護に向かうよう呼びかけました。それらの手配が済んだ午後8時、馬に乗って被災地へと出発。この頃、「気仙街道」と呼ばれていた江刺から大船渡に至る48里(192q余)の道のりは、間に姥石峠や白石峠の難所があり、加えて九十九曲りの険しい山道でした。

及川医師が炎天下の険しい山道を汗だくで進み、盛町(現大船渡市盛町)に着いたのは19日の午前9時。すぐさま警察署と郡役所に行って「自費自弁で怪我病気の治療をしたい。診療場所は最も被害が大きくて医者の足りない地域を指定してくれ」と申し出、郡中で最大の被害を受け、負傷者も多い綾里村(現大船渡市綾里)に向かいました。

綾里村の被害は流失家屋200余戸、溺死者1400余名、負傷者は200名以上に達し、目も当てられない惨状でした。すぐにお寺と村人の家の2カ所を病室にし、次々と運び込まれる負傷者に息つく暇もなく、治療は深夜の12時まで及ぶこともたびたびでした。日誌には治療した患者の氏名、病名なども詳しく記載されており、6月24日までに男48名、女61名、計109名を診療し、その間11名が死亡したと記録されています(軽度の擦過傷等は除く)。

及川医師は多くの診療団が引き揚げた後も村に残り、残務と診療に当たりましたが、7月27日から臨時県会が開催されるという通知を受け、議員の職務も果たすべく村を後にしました。患者をはじめ共に診療団に加わった人々は、及川医師の献身的な医療活動と深い人間愛に感銘を受け、涙を流して送別したと言います。

及川医師の『海嘯日誌』の終わりには、次のような言葉が記されています(一部を要約)。

「家に帰って数日後、赤十字支部より日当旅費であるとして金八十三円八十五銭を支給すると小切手が送られてきた。しかし、私はそのままお返しをした。私は銭壱文をもらおうと思って、入院していた患者をそのままにして気仙郡へ出かけたのではない。隣の郡の同胞への愛というか、自分の心の中に湧いた激情にも似た感情を抑えがたく、医術も足らない自分を恥じる事もなく、あえて薬水の役に立とうとしたのである。彼らは家もなく、土地もつぶれ、血だらけの身体で涙を流しながら語った災害の模様は、日を経るにつれてますますはっきりと私の瞼に浮かんでくる。この様な体験からも、私がお金をもらってすます問題ではない。今、私の心を占めている想いは、そのお金を気仙郡の被害者に分かち与え、たとえわずかであっても雨露の苦難から彼らを守ることに使ってほしいと思うのである」

被災地で困難を極める状況の中、率先して医療奉仕活動を続けた及川医師。日誌の行間からはまさに「医は仁術なり」の精神を全うする医師としてのモラルの高さがうかがわれ、多くの教えとともに感動を呼ぶ記録になっています。

(編集部)

※参考文献 「江刺市史」(江刺市)、「郷土物語」(佐藤孝一著)、「岩手の先人─第三集」(日本教育会岩手支部)

及川栄医師が馬に乗って駆けつけた道すじ(気仙街道)
及川栄医師が馬に乗って駆けつけた道すじ(気仙街道)

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