人物クローズアップ vol.8
今までどおり釜石を離れず
地域の再生を願って
みなさんと一緒にやっていきます
堀耳鼻咽喉科・眼科医院
堀 晃・堀 美知子(釜石医師会)
病院の2階まで浸水
釜石市の堀耳鼻咽喉科・眼科医院を訪れたのは、未曽有の災害をもたらした東日本大震災から間もなく2年を迎える3月初旬だった。そのすぐ付近まで津波が押し寄せたという釜石駅付近はだいぶ復旧が進み、活気が戻りつつあるが、大渡橋を渡って街の中心部に入っていくと様相は一変する。堀医院のある只越町は津波の痕跡がまだ生々しく、隣にあった銀行は空き地のままで、ATMの操作器のみがポツンと建っていた。
病院に入るとちょうど午前中の診療が終わったところだった。堀医院は耳鼻咽喉科を夫の堀晃さんが、眼科は妻の美知子さんと、ご夫婦で開業している。二人は岩手医大の同級生だという。晃さんは只越町に耳鼻咽喉科を開業していたお父さんの跡を継ぎ、昭和62年に眼科医である美知子さんともに現在地に有床診療所として新築開業した。
2年前の3月11日、午後の診療が始まり外来には患者さんがたくさん訪れていた。「本当に激しい揺れでしたから皆さんにすぐに帰るように、近くに高台があるので車を置いて避難するように呼びかけたんですが、みんな帰らないんですね。そのうちワンセグなどで避難情報を見たらしく、気が付いたら車が1台もなかった」と、晃さんはあの日を振り返る。
「当時は入院患者もいたので、津波に備えて2階の入院患者を避難させようとしていた時、突然、ゴーッというものすごい音がして、下にいた妻の“津波だ”という大声が聞こえました。みんなで上へ上へと逃げたんですが、みるみるうちに水が迫ってきて、結局、2階の天井下ぐらいまで浸水しました」
それは危機一髪の出来事だった。死者も出かねない惨事を救ったのは、「病院を建てるなら津波に備えて4階建てにしなさい」という母の教えだった。「釜石生まれの母は三陸大津波もチリ地震津波も経験している。地震=津波なんです」。母の進言に従った4階建ての頑健な建物が、ご夫婦はもちろん、スタッフも入院患者も、高台まで逃げられないと避難してきた隣近所の人も守った。「外は全部、海。何が起こったかわからなかった。落ち着いてから人数を確認すると、従業員が2人足りない。めまいで動けない患者さんを車椅子に乗せて逃げていて、避難所にいることを確認できたのは数日後でしたが、とにかく無事で良かったと思います」
釜石を離れないでください
建物は無傷で残ったが、医療機器は壊滅状態だった。2日後、入院患者が家族に引き取られるのを待って二人は動き出す。「何かできることはないか」と、まず、在宅療養も兼ねる釜石ファミリークリニックに行き、そこで市内の現状と医療活動の情報を得た。
「急場において耳鼻咽喉科の仕事はなかったので、私は医師会長と一緒に歩いて遺体の検案を手伝いました」と晃さん。美知子さんも釜石のみならず大槌町の避難所も回った。「眼科も診療できないので、目薬などを持って避難所を回るくらいでした」と言うが、薬もない大きな不安の中で、穏やかな表情で語りかける美知子さんの姿を見て安心した人は多いだろう。
日を追うごとに避難所にも県内外から応援の医師が入ってきた。二人は話し合った。「器械がなければ開業できない。どうしようか」と。一時は開業医をあきらめ、どこか別の場所で勤務医になることまで考えたという。避難所にいた市民から「先生、釜石を離れないよね」と声を掛けられたのは、そんな時である。惨状を乗り越えて生きようとする釜石の人々を見て、この地を去ることはできなかった。「やはり、釜石で再開しよう」と決めた。
我々が帰れば、誰かが来る
そこからの二人の動きは早かった。出入りの医療機器会社も全面的に協力してくれるという。デモ器でも十分使えることを確認し、ひとまず中妻町の電器ビル3階にてワンフロアの仮診療所をオープンしたのは4月20日のことである。
電話も通じない中、少しずつ復旧しながらの診療だった。堀医院の開業は次第に口コミで伝わり、大槌町や山田町からも患者が来るようになった。中妻町で診療活動を続けながら、堀夫妻は「来年の3月11日まで元の場所で開業する」と目標を掲げ、次なる準備を進めていた。
幸い建物は無事だったが、中の惨状はすさまじく、泥を汲みだし、破損した器械はすべて処分して入れ替えなければならない。資金も労力もいることで苦労も多かったが、「器械屋さん、設計屋さん、建設屋さん、みんなが力を合わせて協力してくれました。ラーメン屋さんはラーメンを一生懸命作って頑張っている。漁師は海の仕事で頑張る。うちも耳鼻咽喉科と眼科で頑張るのは当然のこと。ここに居た人たちが帰って来ないと町は成り立たない。我々は帰れる。帰ってここに居れば、誰かも帰ってくる。だから早く戻ろうと思いました」と、晃さんは言う。全体の復旧が進まない中、堀医院も当初の計画より少し遅れたが、平成24年5月24日に元の場所で本格開業を果たした。
「病院の壁のレリーフを見ましたか?」。美知子さんが静かに話し出した。「病院の前がバス停なので、待っている方のためにベンチを造っていただいたのですが、その彫刻家さんの奥様も彫刻家で復興の願いを込めたレリーフを製作してくれたんですよ」。“セブンデイズ”と題する7枚のレリーフは、3.11から復興しようとする人たちの心の手助けになりたいという作者の願いどおり、堀医院の前を通る人の心を和ませている。「夜はライトアップしますので、灯りの少ない、暗い街を明るく照らし出してくれます。皆さんが喜んでくださるのは嬉しいことです」と、美知子さんは笑顔で語る。
今までどおりに釜石で生きる
晃さんは釜石医師会の副会長を務めている。その立場から最も心配なのは医師不足の現状だという。「釜石は震災以前から医療過疎地。医者を待っていても来ないから、釜石医師会は少ない人材でコメディカル、在宅医療、行政も一緒になってみんなでやってきました。できれば我々の後を継ぐ人が来ればいいのですが、被災地域には前にもまして来ないのが大きな課題です。ぜひ、医師だけでなく看護師も介護士も釜石に来てほしい」と、切実に呼びかける。
そして、二人は大きな災害を経験したからこそ、「今までどおり釜石を離れず、地域をよくするためにみんなと一緒にやっていきたい。私たちもここで生かされているのですから」と、変わらぬ想いを語る。
今、堀医院の駐車場には車が並び、待合室には患者さんがあふれ、以前のような「普通の日常」が流れている。しかし、周りを見れば未だ手つかずの空き地が多く、壊れたままの建物もそちこちに見える。堀医院に戻った日常の営みが、1日も早く街全体に広がっていくことを願わずにはいられない。
(編集部)
ほり・あきら
1947年釜石生まれ。1973年岩手医大耳鼻咽喉科大学院に進む。卒業後、岩手医大医局、八戸赤十字病院の部長、岩手医大講師を経て1987年に現在地に開業。日本耳鼻咽喉科専門医、騒音難聴担当医。2012年4月から釜石医師会副会長、県医師会の理事を務める。
ほり・みちこ
1949年仙台市生まれ。1973年岩手医大を卒業後、東北大医学部付属病院の眼科研修医として勤務。結婚後、盛岡の川久保病院に勤務し、1987年より晃さんとともに現在地で開業。
〒026ー0021 釜石市只越町2丁目5ー24
TEL.0193ー22ー1005 FAX.0193ー22ー6181
【診療科目】耳鼻咽喉科、眼科
【受付時間】
○耳鼻咽喉科
月〜金 午前9:00〜12:15/午後2:30〜5:30
土 午前9:00〜12:30 午後は休診
○眼 科
月・金 午前9:00〜12:15/午後2:30〜5:00
火・水 午前9:00〜12:15 午後は休診
土 午前9:00〜12:30 午後は休診
震災直後の釜石市内(2011年3月11日夕方/堀医院の3階より)
現在の釜石市内(2013年4月11日/堀医院の屋上より)
震災直後の堀医院(2011年3月12日朝)
スタッフとともに。一時は離ればなれになったが、現在は全員そろったという
復興の願いを込め、1週間をテーマに時間と自然のサイクルを表現したレリーフ作品「セブンデイズ」(ケイト・トムソン製作)(上)/バスを待つ人のためにつくった御影石のベンチ(片桐宏典製作)(下)