『今年は大槻玄沢生誕250周年』
一関駅を降りると正面に大槻三賢人の胸像が目に止まる。正面が玄沢(1757−1827年)、左に盤渓(玄沢の次男で漢学者)、右に文彦(玄沢の孫で日本最初の国語辞典「言海」の編纂者)である。
今年は大槻三賢人の祖、大槻玄沢の生誕250周年にあたる。そこで一関出身で医学の先達、大槻玄沢を紹介してみたい。
杉田玄白と前野良沢が日本で最初の実用的翻訳解剖書『解体新書』を著わした(1774年)。これを弟子の大槻玄沢が翻訳をやり直し、「重訂解体新書」を出版した(1826年)。この大槻玄沢が一関(田村)藩の出身なのである。
玄沢は御殿医の建部清庵(由正)(1712−82年)に師事していた。清庵なくして玄沢は語れない。
名医の誉れ高き清庵は、長年、西洋医学に懐いていた疑問を書状にしたため、門人の衣関順庵に託し、江戸に旅立たせた(1770年)。その書状が杉田玄白に届き(1773年)、一関の清庵と玄白とに書簡交流が始まった。このことは「和蘭医事問答」に述べられている(1795年)。また、清庵は『民間備荒録』を著わし(1775年)、領内の飢饉に苦しむ人々を救った医者でもあった。
さて、大槻玄沢である。彼は、清庵の薦めにより、杉田玄白と前野良沢について蘭学を学ぶため江戸に旅立った。その後、二人の仕事を引継ぎ蘭学入門書の「蘭学階梯」や「重訂解体新書」そのほか多くの翻訳や著書を手がけ、日本の医学の発展に貢献した。シーボルトとの交流もあったという。玄沢が開講した江戸の「芝蘭堂」には全国各地から蘭学を志すものが多数訪れている。彼のもとから多くの蘭学者が育ったことも有名である。当時の玄沢は、まさに日本の蘭学の頂点にあり、その後の日本の医学の発展に多大な貢献をしたのである。
玄沢生存の時期に一関藩でも、杉田玄白らの腑分け(解剖)から15年後の1785年に、処刑場で藩医らにより賊の人体解剖が行われている。現在、『豊吉の墓』として東北線沿いに弔われている。