郷土の偉人の教え(4)
救護と復興に生涯をかけた 柴 琢治
医師でもあり政治家でもあった柴琢治は、明治の三陸大津波で救護活動に奔走し、村の救済復旧に力を尽くしました。その献身的な行動は「三陸唐丹の恩人」、「三陸の傑人」と称えられています。
柴琢治は慶応元年(1865)、気仙郡唐丹村(現釜石市唐丹町)の医師・鈴木三折の二男として生まれました。少年時代は地域で一番の暴れん坊といわれるほど活発で、8歳のとき同村本郷の柴玄昌の養子になりました。長じるほどに青雲の志を抱くようになり、13歳のときに意を決して上京。開業医の書生をした後、年齢を2つほど偽って警視庁巡査になりました。しかし、長続きせず、今度は大阪に行って検事の住み込み書生になり、法律を学びました。
明治23年(1890)の秋、父の訃報を聞いて帰郷した琢治は、兄の医業を手伝いながら家伝の医書を読破し、限地開業(医師のいない地域限定の開業)の医者になりました。琢治の医術は、高価な新薬も損益を度外視して用いるなど、患者の立場になった慈悲あふれる診療だったので、近隣の人々からの信頼も厚く、評判を高めていきました。
明治29年(1896)6月15日の夜、三陸一帯を大津波が襲い、唐丹村も壊滅状態に陥りました。琢治は茫然とする家人や村の人々を指揮し、高台や寺の境内にかがり火をたかせ、避難場所や救護の場所を知らせる一方、自宅を開放してけが人を収容し、救援の医師たちが駆け付けるまで不眠不休で手当てを続けました。全身を血に染めて奔走する姿は、まさに阿修羅の様で、後に「傑人」と表されています。
唐丹村では村長も死亡し、役場も流失したので琢治が「村長職務管掌」になり、「救難憲法七章」を定めて負傷者の看護、食料の確保、蒲団の供出、救援活動の分担などを厳命し、混乱を乗り切りました。この津波による唐丹村の死者は全人口の66%の1585人(「釜石市誌」)、救護本部に収容された重症者は80余人とされていますが、実際に治療した数はその十倍といわれています。
当時の新聞記者が書いた「大俠」の“琢治奮戦記”には「果断、敏活、剛毅、仁侠、慈愛、琢治のごときは誠に世に少なし」という称賛の言葉が記されているほどです。
大災害で疲弊した村民は、明治31年(1898)、村議会満場一致をもって琢治を村長に任命します。まだ33歳の若き村長です。琢治はさっそく村の復興にとりかかり、小学校・村役場の再建、宅地造成と住宅建設の助成、道路改修工事を計画し、費用を捻出するために村有林を伐採しました。しかし、村の復興はなかなか進まないため、村長の全責任で隣接する国有林のヒバの木、15000本を許可のいとまもなく伐採し、復興の助けにしました。
だがこのまま済むはずはなく、琢治に司直の手が迫ります。取り調べの間に一旦帰宅を許された琢治は、そのまま五葉山の奥深い山小屋に隠れ、追及の目を逃れます。家人や村人も陰に陽に協力して匿い続け、実に、五葉山中に潜んだ期間は3年間に及びました。
時を経て、盛岡地裁は盗材の発端が被災地復興のための窮余の策であったこと、また、売却に際して私利私欲がないこと、何より村人の琢治に対する思いが通じたこともあり、ついに証拠不十分として村側が勝訴し、刑事事件でも問われることはありませんでした。
明治44年(1911)、琢治は一躍県政に躍り出、大正12年に引退するまで沿岸県道の造成、県内各学校(中等学校)の新設、県水産試験場の釜石設置など、県政の舞台でも豪胆な腕を振るい、地域の発展に尽くしました。
また、大正2年の唐丹村大火災、昭和8年の大津波でも自ら応急薬品用具を携え、重傷者を収容しながら集落中を駆け巡り、村民の救済に、そして地域の復興に奔走する姿が見られたと言います。
(編集部)
※参考文献 「釜石市誌」、「風雪に舞う」(菊池弘著)、「広報かまいし」(昭和61年2月1日号)、「いわて復興偉人伝」
唐丹町本郷の桜並木:昭和8年の三陸大津波からの復興の願いと、現天皇陛下のご誕生を兼ねて、昭和9年春に植樹された桜並木。3年に一度の天照御祖神社祭典では、桜の下を大名行列が練り歩く。