明治の教訓を生かした普代村の防災対策と前号に引き続いて県北沿岸の被害の様子と翌年の様子をご紹介します。
防災対策を考える
普代村を守った水門と防潮堤
岩手、三陸海岸の北部にある漁業が盛んな人口3000人の村を2011年3月11日巨大な津波が襲った。だが東北一と言われる「水門と防潮堤」が14mの高さの津波から村を救った。2011年3月30日時点で行方不明者は1人出ているものの死亡者はゼロ、住宅への浸水被害も出ていない。
普代村は、普代川に沿って中心部を形成している。1896(明治29)年に発生した明治三陸大津波では1000人以上の死者や行方不明者を出している。1933(昭和8)年の昭和三陸津波では439人の犠牲者を出している。明治に15mの波が来たと言い伝えがあり、和村幸得村長(故人)は水門と防潮堤の高さを15.5mと主張した。
高さ15.5m、全長130mの太田名部防潮堤は約6000万円で1970年に造られている。又、高さ15.5m、長さ約200mの水門は岩手県と国が高潮対策事業の一環として35億6000万円かけて建設した。完成したのは1984年であった。
(情報部)
※参考文献 「貧乏との戦い40年」和村幸得著(元普代村村長)
震災直後の普代川水門 |
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太田名部防潮堤 |
津波1年後の普代川水門 |
一歩一歩前へ
確実に復興へ歩みを進める県北沿岸の町並み…
野田村 三陸鉄道
(十府ヶ浦付近) |
(復旧した三陸鉄道・野田村) |